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餅月あんこって2

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/12/04(月) 00:39
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952 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:22

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

953 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:22

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

954 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:22

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

955 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:37

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

956 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:37

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

957 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:37

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

958 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:37

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

959 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

960 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

961 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

962 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

963 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

964 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:38

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

965 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:39

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

966 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:39

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

967 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:39

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

968 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:39

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

969 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:40

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

970 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:40

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

971 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:40

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

972 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:40

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

973 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:40

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

974 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:41

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

975 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:41

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

976 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:41

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

977 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:41

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

978 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:42

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

979 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:42

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

980 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:42

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

981 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:42

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

982 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:42

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

983 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:43

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

984 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:43

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

985 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 22:43

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

986 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:02

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

987 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:02

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

988 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:03

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

989 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:03

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

990 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:03

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

991 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:03

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

992 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:04

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

993 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:04

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

994 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:05

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

995 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:06

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

996 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:06

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

997 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:06

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

998 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:06

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
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彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

999 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:06

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

1000 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2001/07/14(土) 23:07

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げにな
る上に、不衛生であった。死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、その証明
を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、やっと中国の慈善団体がおこなっ
た。城外の死体は城内よりもはるかに多かった。それは多くの中国兵は城外で捕虜に
なったあと銃殺されたからである。また、南京は当時、三方面を包囲され、南京から逃
げようとすれば、ただ揚子江を渡るしかなかった。しかしまた河を渡る手段がなく、その
ため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、彼らは全て虐殺された。また
たとえ城内で捕まえられた青壮年であったとしても、しばしば城外に護送されて虐殺され
た。死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにお
こなわれ、近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法で
おこなわれた。
 南京の慈善団体の崇善堂は1937年12月26日から1938年5月1日までに埋葬し
た死体は、城内では7,549体、城外での埋葬は104,718体で、合計112,266体
になる。中国第二歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、
彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。また、中
華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、水西門外の莫愁湖等に死体を大
量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。南京紅卍字会は1937年12月22日
から1938年5月31日まで死体を埋葬し、城内で1,793体、城外で41,330体、合わ
せて43,123体の死体を埋葬した。この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の
「北支版」に載った林田特派員の報道と完全に一致している。さらにまた、中国赤十字南
京分会が22,371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3,000
体余り合葬し、南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫
を雇い28,000体を埋葬、市民の槐芳縁が7,000体を埋葬しているなど、全部で合わ
せると埋葬死体は22万体を数える。
 これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、あるいは揚子江
に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。こうした類の資料は
非常に多く、その中で規模が最も大きく、焼き捨てた死体の最も多いのが1954年の元
日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。
 日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。1937年12
月16日、彼は死体処理の命令を受けた。その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラッ
クを配備し、船舶で死体を運送した。太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田
が処理したのが19,000体、安達が処理したのが81,000体であった。彼の推測では
その他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。その
中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、カギ状の棒でその頭と心臓
部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。現在中国にある档案(重要保存資料)の中
から、われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から死体の処分をおこなった
傍証を発見し、その資料は死体の処分について、軍隊が出動しただけではなく、また傀儡
政権の組織を利用し、時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。
 先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に
考えてみると、その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、1947年中国戦犯裁
判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した「被害総数30万人以上」という数字は肯定
できるものであり、根拠のあるものである。

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